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隣人愛について

 

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 キリスト教は隣人愛を教える。「あなた自身のようにあなたの隣人を愛せよ」と。それは神の戒めでありそれゆえそれは社会に向けて語られたものではなく、ただあなた一人だけに向けて語られた戒めである。キリストの戒めはすべて個人に向けて語られている。戒めは裁きのためにあり裁きは個人に向けて成されるからである。それゆえ「隣人」と言われるとき、それはただ一人のあなたのただ一人の隣人、すなわち「友人」を意味しているのである。
 しかし、教会にも社会にもたくさんの隣人がいてそれらの人々があなたの隣人愛を待っているように見えるのである。そしてあなたは、それらのたくさんの人々に平等に隣人愛を注ごうと奔走する。しかし、それはもともと無理な努力である。主イエスが言われたのは、そのような意味ではない。主イエスは、あなたがつねに一人の人の友となるべきことを命じられた。99匹の羊ではなく、ただ1匹の羊の真の友となるようにと。それは、あなたを愛するただ一人の真の友である主イエスがおられるから可能なのであり、またそうするべきなのである。
 しかし社会は、この聖書が教える隣人愛の意味とは、まったく違う隣人愛を要求する。あなたがすべての隣人に対して、平等に接するようにと。一人に良きことをするなら、他の人にも同じようにするようにと。そして、それができないなら、それをする必要はないと。その考えは、だれにでもしてあげられるようなことだけを行うように奨めているのであり、結局は、隣人に対しては、ささやかな親切程度にとどめるべきことを命じているに過ぎないのである。
 この社会的な隣人愛の捉え方が教会に入ってきたら、そこは愛のない場所と化すであろう。キリスト教には、元々社会性はない。社会的な隣人愛の実践には、彼らは不慣れなのである。もし、教会に愛や暖かい心が欠如していると感じているなら、このことを調べてみる必要があるだろう。つまり、教会のみんなが、社会の慣習や思いを持ち込んでいることはないか。求道者や新来者に対する配慮のあまり、教会の敷居を低くし、社会とのギャップを埋めようとしていないか。社会でも通用するクリスチャンを理想とし、教会をあげてその養成に努力していないか。もしそうならそのような場所では主イエスが命じられた隣人愛の実践は期待できないのではないだろうか。
 ツアラトストラは語る、「わたしはきみたちのもろもろの祝祭をも好まない。そういう祝祭の折には、わたしはあまりにも多くの俳優たちを見出したし、また見物人たちも、しばしば俳優たちのように振舞ったのだ。隣人ではなくて、友人を、わたしはきみたちに教える。友人はきみたちにとって大地の祝祭であるべきだ、また超人についての一個の予感であるべきだ」と。

安息日とは何か

 

 ごと  安息   守る こと は,クリスチャン  求め られ   ませ ん。クリスチャン は「キリスト  律法」の もと  あり,その 律法   安息   守る こと  含ま    ない  です。(ガラテア 6:2。コロサイ 2:16,17

エホバ  証人  そう 確信   いる   なぜ でしょ  か。まず,安息   起源  調べ   ましょ う。

 

「安息 日」と いう 言葉 は「休む,やむ」を 意味 する ヘブライ   由来    ます。それ  聖書  初めて   来る  は,古代 イスラエル 国民  対する 命令   です。(出エジプト 記 16:23)例えば,十戒  4    おきて   こう あり ます。「安息   覚え  それ  神聖  もの  する よう に。あなた  六日  あいだ 務め  なし,自分  すべて  仕事   なけれ  なら ない。しかし,七    あなた   エホバ  対する 安息   ある。どんな 仕事     なら ない」。(出エジプト 記 20:8‐10)安息  は,金曜   日没 から 始まり 土曜   日没  終わり まし た。その 間,イスラエル   自分  いる 土地 から 離れ たり,火  たい たり,まき  集め たり,荷物  運ん だり    なり ませ  でし た。(出エジプト 記 16:29; 35:3。民数記 15:32‐36。エレミヤ 17:21)安息   破る こと  死罪  当たり まし た。―出エジプト 記 31:15

ユダヤ   は,ほか   安息   される      あり まし た。また,7    50    安息    され   まし た。安息   は,土地  耕作  ない  おく べき  あり,仲間  イスラエル   対し  借金  返済  迫る こと  でき ませ  でし た。―レビ 記 16:29‐31; 23:6,7,32; 25:4,11‐14。申命記 15:1‐3

◆ 隣人愛 ~ サマリア人のたとえと敵を愛する ~(2)

「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。

自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」。
レビ記:19章18節)

ここに出てくる「民」というのはイスラエルの民のことで、この戒めの文脈からしても、「隣人」というのはイスラエルの同胞のことが意味されていると考えられます。確かにイスラエルは、自分たちの間に寄留している異邦人にも愛を及ぼすことを知っていました(申命記:10章19節他、申命記に多数)。しかし、イスラエルに敵対する民や、イスラエルの中にあっても、信仰深い者に敵対する傲慢な者たちに対しては敵意と憎しみを持つことが、敬虔な者にとって当然の事とされていました(詩編等に多数)。このような意味で「敵を憎む」ことは、自ら敬虔な者たちの共同体をもって任じるクムラン宗団の文書に、典型的に表現されるようになります。クムラン宗団は共同体に加入する者に、「すべて光の子らを……愛し、すべての闇の子らを……憎むこと」を求めています。マタイが「パリサイ派の人々の義」を、「隣人を愛し、敵を憎め」としてまとめる時、このクムランの戒律を、ユダヤ教倫理の典型として念頭に置いていた可能性も否定できません。

さて、ルカ10章29節の、「私の隣人とは誰ですか」という律法学者の問いの中にある「隣人」は、民族的、宗教的枠内に限定された「隣人」であったのに対し、イエスは「よきサマリア人のたとえ」を通して、真の「隣人」がそのような枠に規定、限定されない存在であることを示そうとしています。その意味でルカ書は2つの「隣人」、つまり、「限定的で受動的な隣人」と、そのような枠に囚われない「主体的な隣人」の両者を記述示することによって、助けを必要とする人に愛の行為を実践する者としての、真の「隣人」の在り方を示しました。そして、それと共に「主体的に隣人」になるように勧めています。

しかし、ここには「隣人」に関して、更に重要なことが示されていると考えることができます。そもそも、「隣人」とは相対的な関係を現わしているもので、その行為が常に、能動的と受動的のいずかに規定されているとばかりは言えないからです。つまり、ある人が他の人の「隣人」であるという場合に、双方の一方が「助ける人」で、他方が「助けられる人」というような、固定した一方的な関係ばかりではないでしょう。その両者の間に、「相互に助け合う関係」というものが存在していること場合もあります。その意味においては、真の隣人とは「困窮した時には、いつでも、お互いに助け合うことができるような関係」を指していると考える事もできます。

ルカ書における「よきサマリア人のたとえ」から見る「隣人愛」の特徴としては、「「神への愛」と「隣人愛」の2つの愛の戒めは、不可分なものとして捉えられている」、「 隣人愛の対象となる「隣人」の範囲は、民族的、宗教的枠内に限定されていない」、「 行為としての隣人愛が強調され、主体的に隣人になることが強く勧められている」、「隣人愛による関係は、一方的な関係としてではなく、相互に助け合える関係として理解されている」といった点が顕著になっています。つまり、「隣人とは誰か」の範囲を決めてからその隣人を愛する、というのではなく、サマリア人のように愛することによって、相手が誰であれ「隣人になっていく」ことが出来るということが述べられているのです。神が求めていること、神の望みは「隣人の範囲を決めて、隣人愛の掟を守る」ことではなく、「目の前の苦しむ人に近づくことによって、隣人になっていく」ことであるのです
 
よきサマリヤ人のたとえでは、通りかかった祭司が「これは私が愛さなくてよい人だ」と自ら線を引いて、関わりを持とうとはせず、通りかかったレビ人もまた、「これは私が愛さなくてよい人だ」と自ら線を引いて、関わりを持とうとはしませんでした。祭司とレビ人は両方とも神殿で仕えている人であり、真っ先に律法を実践するの人のはずでした。彼らは道端に倒れている人を「見ると、道の向こう側を通って行った」とあります。前回の記事でも書いたように、彼らは神殿での務めのために、死体に触れて汚れることを避けようとしたのでしょうか。その一方で、三番目に登場したサマリア人(律法学者の考えでは「隣人」ではありえない人)は「見て憐れに思い、近寄って」手厚く介抱します。ここで使われている「憐れに思い」と訳された言葉は、ギリシャ語で「スプランクニゾマイ(splanknizomai)」という言葉です。この言葉は「スプランクナ(splankna=はらわた)」を動詞化したもので、「人の痛みを見た時に、こちらのはらわたが痛む」、「はらわたが揺さぶられる」ことを意味する言葉です。強いて言えば、日本語の「胸を痛める」に近いかもしれません。このサマリア人は「レビ記には『隣人を愛せ』という律法があった。この人は隣人だから助けよう」と思ったわけではありません。「憐れに思い~(はらわたした)」から助けたのです。目の前の人の苦しみを見た時に、その苦しみを感じて、放ってはおけなくなるということなのでしょう。

そして、イエスは律法学者に対して「行って、同じようにしなさい」と結論付けられます。この言葉は、律法の専門家にとっては意外な答えだったかもしれません。「同じように」と言われても、イエスが語られたのと同じ状況に自分が置かれることはまずない、と考えたかもしれないからです。では、イエスは何を言おうとされたのでしょうか。イエスは、律法学者がするような枠組みの設定、掟化を拒まれたのです。祭司、レビ人の二人は死体に触れると汚れをおび、神殿での義務を果たす資格が失われる立場にありました。また、サマリア人も、油やぶどう酒にお金の持合せがあり、また時間に余裕があったからよかったものの、実際にそのような場面に直面すれば、何かがない場合の方が多いものです。置かれる事情は様々に変わりますから、行動を規準に「何をすべきか」を規定することはかなり無理があります。しかし、「その人を見ると、道の向こう側を通って行った」二人と、「その人を見て憐れに思い、近寄って」介抱したサマリア人の間には、やはり、心の相違が感じられるでしょう。つまり、イエスが問題にされたのは、単に行動に関する勧めだけでなく、心の状態、心の違いを強調されたのではないかと考えられます。

勿論、心の状態を強調されたからといって、行ないをおろそかにしてよいという事ではありません。律法の専門家に、よきサマリヤ人の話をされたイエスが、「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と聞かれた時、律法の専門家が「その人を助けた人です」と答えると、イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。パリサイ派の人々や律法学者たちは下手に聖書や神学の知識がありますから、もうそれだけで出来たつもりになっていたかもしれません。そういう状態では、行ないが伴わなかったのも無理はありません。そして、イエスが心の状態を強調されたように、たとえ行ないがあったとしても、それは偽善的なもの、本物ではなかったのです。

ルカ書においては、マルコ書、マタイ書以上に「神への愛」と「隣人愛」が密接に結び付けられ、両者は不可分なものと見なされています。神を愛することなく隣人を愛することはなしえず、神への愛は、隣人愛の土台となるべきもので、その意味でも、徹底した神への愛が要求されています。よきサマリア人のたとえにおいても、イエスは「隣人」の対象を民族的、宗教的枠内に限定していた当時のユダヤ社会の考え方を否定し、「隣人」を開かれたものにしています。それにより、愛の対象は同胞民族以外の異民族にも広げられ、愛の行為を必要とする貧者等の社会的弱者にまで拡大していくものとなりました。レビ記19章には、「寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者を、あなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である」(レビ記:19章33、34節)。律法の前提には、いつも神の救いのわざがあります。エジプトで寄留者だったイスラエルの民を救ってくださった神の愛を知った民はどう生きるべきか、これが、いつも律法の指し示していることです。律法は人間を採点するための掟ではなく、本当に問われていることはいつも、この神の愛にどのように出会い、どのように応えるかということです。そして、「行ってあなたも同じようにしなさい」、これに尽きるのです。それは自分で隣人の範囲を決めてから行なうのではなく、「目の前の苦しむ人に近づくことによって、自ら隣人になっていく」という前提があるのです。

更に、前回の記事で触れたように、聖書の同じ神の掟の中には、「あなたの敵の牛、あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない」(出エジプト:23章4、5節)というものがあります。サマリア人のたとえにおいては、人についての隣人愛が語られていましたが、ここでは敵の人の牛やろばであっても、助け起こさねばならない事が記されています。ここでも、中心として語られているのは「助けおこす」ことであって、相手が自分にとって敵であるかどうか、どのような立場の者かという事ではないことが分かります。確かに、敵に対しても善行を求めるという訓戒は、ユダヤ教の文書のみならず、当時のヘレニズム世界の諸文献にも数多く見出されるものです。しかし、そのいずれの場合も、倫理的な原則と見なされるには至っていないのが現状で、その意味では、明確に「敵を愛する」ことを求めたイエスの教えは一線を画しています。

ルカ書においては、敵を愛する教えについての敵のイメージを、キリスト教迫害者から、身近な知人を含めた個人的な敵対者へと一般化することによって、愛の対象をより広範囲で具体的なものにしようとしています。ルカはまた、愛の行為を互恵の原則を越えるものとして捉えており、同等の返礼(報い)を期待できる相手に対する善行は、愛の行為ではありえず、明らかに返礼を期待できない相手に善行することによって、初めて愛の行為が成立し、それに対しては、相手からではなく天からの報いが期待できることが述べられています(ルカ:14章12~14節、ルカ:12章33節)。それによって、ルカは人の間に見られる互恵の原則からは導き出され得ない、他者に対する愛の行為を、神からの報いによって動機付けることにより、人間同士の横の関係から、神と人との縦の関係へと導いています。



● 隣人と敵を愛する

マタイはその5章43節で「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」と書いています。しかし、「隣人を愛し、敵を憎め」という一対の表現は、旧約聖書にはありません。「隣人を愛しなさい」という戒めはレビ記に明記されており、ラビ(教師)たちも、これを最も大切な戒めとして重視していました。それに対してイエスは、「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(同44節)と言われています。隣人を愛することにおいては同じですが、敵については、敵を憎むことを当然とするユダヤ教の倫理と反対に、イエスは敵を愛することを求められました。ユダヤ教では、愛すべき隣人と憎むべき敵とを区別しましたが、イエスはその区別を廃し、敵をも愛すべき隣人の中に入れてしまわれたのです。

ユダヤ教で「隣人」とはイスラエルの民の範囲内の人であり、信仰を同じくする共同体の仲間のことでしたから、イスラエルと宗教を共にしない異邦人や、イスラエルの中でも律法を知らない階層の人たち、敬虔な者を圧迫する傲慢な者たちは、関わりを持たないか、蔑視や敵意をもって対すべき相手でした。パリサイ派や熱心党の人々は、律法への熱意の故に、異教徒の支配者や律法に無縁なユダヤ人を蔑視し憎み、時には殺意にまで至りました。また、ユダヤ教では、「隣人愛」の範囲が割礼を受けた者など、同胞や同じ宗教的共同体に限定される傾向があったのは事実でしたから、こういった「排除の論理」を指して、イエスは「敵を憎めと言われている」と言われたのでしょう。ですから、必ずしもユダヤ教において、文字通り「敵を憎め」ということが強調されていたわけではないようです。

それに対してイエスは、そういう人々をも「隣人」の中に入れてしまわれるのです。自分自身のように愛すべき隣人とされるのです。律法に熱心な義人たちから「罪人」と蔑視されている人々はもちろん、迫害を加えてくる異教徒や不信心な者たちまで含めてしまわれるのです。罪びと、徴税人、異教徒を愛することは当時の律法違反で、ユダヤ共同体の正義への裏切りを意味していました。イエスの敵を愛するというの教えが、当時のユダヤ教の正義に反していたからかもしれませんが、モーゼが命じたように、「隣人(同胞)を愛し、敵を憎め」が申命記の掟だったからです。この「敵を憎め」という言葉は、直接旧約にはありませんが、「神が憎む者を憎む」(詩編:139篇21、22節)とあるように、旧約にはイスラエルの敵に向けられる憎悪がしばしば現れます。一見して個人的な恨みと思われる場合でも、詩編109篇のように「神に逆らう者」として激しい呪いが向けられるのです。この場合でも相手はおそらく、自分を含む共同体に対する敵を指しているのでしょう。クムラン宗団規定には「神が斥ける者を憎むべきである」とありますが、これも詩編と同じ主旨です。また、「敵を愛する」ことは、その敵が民族共同体の場合には、モーセ律法を否定することになります。民族共同体の場合と個人の場合とを、同じように考えることができないとして、ここでイエスが語っているのは、個人的な敵の場合に限定する解釈もあります。しかし、「迫害する」も「1ミリオン歩かせる者」も、ローマの軍隊によるユダヤ人への圧迫や労役を反映していると考えられます。ユダヤ戦争でのローマの兵士たちの弾圧や、異邦人によるユダヤ人への迫害がキリスト教徒へも及んだことがあってか、マタイでは、このような出来事が背景にあると思われます。ですから、ここでの「敵」とか「悪人」も、個人的な意味だけではなく、「神の敵」「神に逆らう悪人」「神に対して罪を犯す者」の意味を含むと考えるのが正しいでしょう。尚、ユダヤキリスト教徒が多数を占める教会や宗団では、「義人」と「不義の人」との区別を超える父の神の愛を説くことは、律法の否定にもつながり、ユダヤ教からの完全な分離を意味することなります。

ここで「敵を愛しなさい」というときの「敵」とは、まず第一に、このような宗教上の敵対者が考えられていることは、「自分を迫害する者のために祈りなさい」という句が、「敵を愛しなさい」という句と一対になって用いられていることからも分かります。宗教的な敵意ほど妥協なく激しいものはありません。その敵に対して、呪いではなく祝福を祈ることは、敵を愛する愛、善をもって悪に報いる愛の表現です。もちろん、「敵」とは宗教上の敵対者だけではありません。人生においては深刻な利害の対立から、また歴史においては激しい民族や階級の対立から、個人的に、また集団的に、敵と遭遇しなければならない状況が多々あります。また、現実には私たちの前には必ずや「敵」が現われます。私たち自身が自分の言葉や行ないによって「敵」を作ってしまっている時もあります。ですから、理想的には「敵をつくらないこと」が大切です。しかし、どんなに努力しても、「敵」が現われてきた場合には、「その敵を愛すること」が、求められているのです。

仮に、この「敵」を「愛することができない人」と理解すれば、愛することができない人を愛しなさい、と言われるところに痛みが生じます。自分という罪人が神の恵みによって赦されて、今ここに生きているという事実が、むしろ、その人を「愛することができない隣人」へと向き合わせます。どうしても赦し得ない隣人へと向き合わされる時、人はいやおうなく、本来なら決して赦され得ない罪人である自分が、主イエスキリストの贖いによって赦され、受け入れられ、愛されているという恵みの事実に向き合わされます。「愛することができない隣人」が、人をイエスの贖いによる赦しの恵みの事実に直面させるのです。そして、この隣人は、人が信仰を確かめるための確証の材料、確証の機会を形作っているのです。「私は人を赦し抜く事が出来ない」という事実が、「私という赦されない罪人が、イエス・キリストの贖いによって赦されている」という事実の確証を得ているのです。「愛することができない隣人」に向き合わされるとき、人は本当の自分自身の姿に向き合わされることになり、自身の罪を知り、自身の不幸を知り、そのような人のために血を流された主イエス・キリストの愛を知るようにさせられます。そして、「あなたが罪を赦されたように、あなたも隣人を赦しなさい」という神からの招きが、「愛することができない隣人」を通して来るのです。その隣人は、罪によって失われた自分の状態をしらしめ、間接的に、しかし明確に、人はただ、神の恵みによってのみ生きることができるということを語ってくれるのです。

しかし、イエスは人の目線で「敵を好きになりなさい」とも、「自己努力で解決しなさい」とも言っておられるのではありません。イエスは具体的に「祈りなさい」と言っておられるのです。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われるのです。主イエスがそのように命じる根拠は、私たちと神との関係です。この言葉は世の中の人一般に語られているのではありません。マタイ5章45節にあるように、イエスに従い、神を天の父と呼んでいる人に対して語られているのです。ですから、イエスは続けて、「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」と語り、 「あなたがたの天の父の子となるため」であると言われました。まず神が「わたしたちの天の父」となってくださいましたが、そのように、神を天の父と呼べるということは、決して当たり前のことではありません。人は到底、神の子どもたちと呼ばれるに相応しい者ではないのです。人が神を天の父と呼べるのも、父なる神が「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」という方だからこそです。そのような天の父なる神であるからこそこそ、正しくない人間たちのためにも、御子イエスをさえ用いて人の罪を贖ってくださったのです。そして、天の父なる神がしてくださったように、私たちも父と同じようにすること、その具体的な現われの一つが、「敵を愛し、迫害する者のために祈る」ということなのです。

聖書が旧約から新約時代になってはじめて「敵を愛せよ」と説くことができたのには理由があります。イエスの生と死と復活という出来事があり、これを通して示された神の愛を体験した弟子たちがあったからです。ペテロを筆頭にイエスの直弟子たちは皆、一度はイエスに背を向けましたが、その背きの時に、イエスを通して示された神の際限のない憐れみを体験したのです。その旧約聖書は倫理道徳の話ではありません。道徳的教えになるのであれば、最初からそのように書けばいいのです。そもそも、黄金律の聖句(マタイ:7章12節)では、「これこそ律法と預言者である」と記されていますが、ローマ書3章21、22節では、「しかし、今は、律法とは別に、律法と預言者によって証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それは全ての信じる人に与えられ、何の差別もありません」とあるように、旧約聖書はただ一人の救い主を指し示し、待ち望み、証ている書物なのです。そして、この事についてはイエスご自身がユダヤ人指導者たちに対して、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネ:5章39節)と、明確に述べておられるのです。ここでイエスが言われている「聖書」とは、もちろん「旧約聖書」の事です。

パウロはその聖書の中で「(わたしが) 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」(ローマ:5章10節)と述べています。イエスが律法についてユダヤ教的な解釈を退けたのは、「神を思うような愛に由来する愛で全ての人々を愛すれば、すべての律法は自ずと成就してくる」ということなのです。イエスの教えは、それによって本人が徳を積むとか、相手が恥じ入って反省するだろうというような、旧約聖書の知者の教えに見られる修養の手段とか、敵が恥じ入って態度を改めることを期待するといった次元のことではなく、限度を知らぬ神の慈愛と赦しに基づくものなのです。


隣居 りんきょ

隣居

2つの世帯が、別住宅で隣り合って住む形態のこと。
狭義には、1つの敷地内に別棟を建てて、
親子や兄弟の世帯が分かれて住む形式を指す。
しかし、近年は2世帯住宅の発展で、建物は1棟だが、
内部は台所はもとより玄関や浴室もすべて別々になっている形式が増えてきた。
この形式から別棟形式までを含めて、広義に隣居という。
俗にいう「スープの冷めない距離」に住むのは近居といい、
歩いて10分程の距離間が目安。隣居は、同居と近居の中間として位置付けられる。


二世帯住宅 にせたいじゅうたく

大辞林 第三版の解説

にせたいじゅうたく【二世帯住宅】

一つの建物に親の世帯と子の世帯の二世帯の家族が住む住宅。
親と子の世帯がそれぞれ独立した生活ができるものをいう。

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