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【挨拶習慣】隣人を愛せよ 【近隣住民と挨拶をしましょう】

隣人愛とはギリシャ語でアガペーと言います。
だれもが持っている他の人への気遣いのこもった愛のことを指します。

例えば、裸で泣いている赤ちゃんを見ると助けてあげなければと感じるような、自然の愛情です。

イエスはこう述べました。
「友のために自分の魂をなげうつこと、これより大きな愛を持つ者はいません。」ヨハネ15:13
「それゆえ、自分にして欲しいと思うことはみな、同じように人にもしなければなりません。」

マタイ7:12

 

仏教の教えの本質は、執着からの脱却で、

その目的は人生の苦しみから逃れるため、と解釈しています。
では、キリスト教の教えの本質は何でしょうか?
隣人を愛せよと説いていますが、その目的はなんでしょうか?
平和な世の中を作るためでしょうか?
魂の浄化に関わってくるのでしょうか?

物事に執着するなという仏教の教えと、

隣人を愛しなさいというキリスト教の教えが、

ふと相反する考えのように思えたので質問します。
仏教で愛を説かないのは、

その人物に執着しすぎてしまう恐れがあるからと解釈しています)

よろしくお願いします。 

 

こんばんは。

私は宗教家ではありません。
なので独断的私見になりますが・・・

まず、単に「隣人を愛せよ」ではなく
「汝自身を愛するように、汝の隣人を愛せよ」だったと思います。
前者はただのスローガンにしかなりませんが、
後者は本人に対する問いかけを含むのではないでしょうか?
後者のような指針を自らの内に持つとき、
自分や人にどう関わっているかを吟味することが要求されます。
自ずと、自分を愛するとは、人を愛するとはどういうことなのかと自らに問うことになります。
それは具体的で誰にでもわかる台詞でありながら本質に迫る問いであり、
人間を成長させる力を持っている言葉だと私は思いました。

私は、キリスト教仏教も人間の幸福を希求していると思います。
より深く人を愛するには 慈悲と悟りの両面のレベルアップが求められる気がします。 
執着するなではなく、執着が無意味に思えるレベルまで認識が

拡大することが悟り・解脱ではないでしょうか。
キリストの言行は、シンプルでありながら矛盾を含むようでもあり、
愛への認識の拡大を迫る。
個々の局面で自分の中の執着や冷酷さと向き合うことを要求する。

キリスト教の愛と、「愛別離苦」といった使い方をする仏教的な愛とでは、

そもそも概念が違うと思います。
キリストの問いた愛は執着を超えた大きな愛であり、
キリストの言動は、そういう愛への示唆に満ちていると私は思います。